0308
2006-04-04
農家の娘
 わたしたち派遣社員のまとめ役だった人、
そしてその他の人も会社を辞めるというので、
お別れ会とあたらしい派遣の顔合わせをかねて
飲み会が開かれることになった。
 わたしはやめる人の跡継ぎで、
一週間だけどその人によくしてもらった。
 控えめで黒目がちで、
目を開いてるのかわからない温和な笑みの人。
いい匂いもするし、きれいな人だし、言葉遣いも柔らかで、
こんな人と一緒に仕事ができたらよかったのになあと
ちょっと残念。

 会はつつがなく進行し、見ていたら
その人のところにはかわるがわるに人が訪れ、
楽しそうに、そして寂しそうに話をしているようだった。
「ね、知ってる?」
 途中で横からかかる声。
「え?」
「こんなに一気に人がやめるの、
あの人が辞めるのに合わせて、他の人もやめるからだって話だよ」
「そうなの?」
 まあ、そういうこともあるのかとは思う。
あんなに柔らかな人だもんね。
 そして見ていると、年をとったおじさんが来た。
「あ、社長」
 どこかかからか、声。
 あれが、社長……?

「本当にやめるのかね?」
 社長だという人は言った。
「君のおかげで一緒に辞めてく人間も多いという話じゃないか」
 ……本当だったんだ。
「うちとしては君に辞められると大きな痛手だな。
社員にしてもいい、会社に残ってくれないか?」
 明日も知らない派遣の身分から、社員へ? 
抜擢なんて本当にあるんだ……。
 軽く感動していると、
「それが人へ物を頼む言い草ですか」
 凛とした声が響いた。

 見るとあの人は背筋を伸ばし、細い目を開いて
社長を見据えていた。
「高いお金だけ取って、監督という名義に
あぐらをかくだけの社員。
安いお金でだれよりもこき使われる派遣。
人も育てず、ただ育てたものの汁をしぼりとって
捨てるだけの人が、どんな口をききますか」
 普段のあの人からは想像もできない姿。
「わたしの家は貧しい農家でした。
それでも父は土から、生き物から、
ほんの少しだけ命を分け与えてもらうことで
生きているのだという態度をつらぬきました。
貧しくても、わたしは幸せでした」
 胸に手を当て、声を響かせる。

「それが、どうです? 
ここは人の役に立つどころか、人を食い物にします。
挙句の果てはわたしにも、役に立つから拾ってやる? 
何様ですか」
 怒ってる? 憤ってる? あの人が。
「どんなにお金があっても、どんなに学があっても。
人を人として見られないあなたを、
わたしは人として尊敬することはできません。
そしてそんな会社で、わたしはもはや働きたくはありません」
 思わず出た拍手に、社長がわたしをにらんだ。
でも拍手はあたりからまわりからどんどんあふれ、
広くはないお店を一杯にする。

 わたしの胸にも何かがあふれ、思わず叫んだ。
「これから、どうするんですか?」
 あの人はわたしを見て、わたしはつなぐ。
「お金なんていりません。あなたになら、ついていきたいです」
 お金が欲しくて勤めたはずなのに、
なぜそんなことを言っているのかはわたしにもわからなかった。