0207
2006-03-03
ささやかなしあわせ
 どこかも知らないのによく知っている場所、
顔も見えないのによく知っている若い人。
いつの間にかふたり向き合っているのに気づいたとき、
わたしは彼に愚痴をこぼしていた。

「働いてる人とそうでない人って、すぐわかるんだ。
絶対、違うから」
「なにが?」
 たぶん穏やかな笑みを浮かべているだろうその人が
やわらかく尋ねる。
「輝き、っていうかな。
どんなに本人が大変だって言ってても、それでも何か光ってる。
……そう感じるんだ。
わたしはずっと、主婦だって言って家にいて、
だんだん自分がわからなくなってく気がする。
夫が転勤だって言えば一緒に行くしかないし、
逆に転勤がなければわたしはずっとこのまま。
そのまま永遠にそこにい続けて色あせて腐っていく……
そんな気がする。あなたなら、わかるよね?」
「ああ」

「言ってたよね、将来が見えて怖くなるって。
あの時、わたしはぜんぜんわからなかった。
でも……たぶん、こういうことなんだっていまならわかる。
でも、いまはそれ以上にわからないんだ、
わたしはいったいなんなのか。
主婦ってなんなの? わたしはこのままでいいの? 
わたしはなにをすればいいの?」
 言いながら込みあげてきてしまって、
わたしはぼろぼろ泣いていた。
「ねえ、教えてよ。
わたし、このままずっと生きていくなんていやだよ」
 すがるわたしを彼は抱きしめ、何も言わず頭をなでた。
 わたしはこらえきれなくなって、
ずっと抱えていた涙をこぼし続けたのだった。
「ん……?」
 ぼんやりと目を開けると、暗闇の中、
隙間から光がさしこんでいるのが見える。
 ここは……うちだ。眠ってしまっていたらしい。
 いつのまにか かけられていた毛布をたたみ、
濡れていた目元をぬぐいながら隣に行くと、
夫と娘がわたしに振り向く。
「ははは、よく寝てたな」
「ふふ、おはよ〜」
 いつもの家族。なぜだかあきらめのような、
よくわからないため息がこぼれた。

「なんか嬉しそうだね。いいことあったの?」
 娘の言葉に。
「ええ?」
 嬉しそう? わたしが?
「夢で、懐かしい人に会っただけ」
「あ、もしかして初恋のひと〜?」
 ふっとわたしに振り返る夫。
「ううん、そんなんじゃないよ。ずっと昔に、死んじゃったひと」
 ……いつもありがとう。わたしは、それでも幸せだよ。
 もう顔さえ思い出せないあのひとに、
わたしはそっと感謝を告げた。