0373
2006-04-21
花に咲く君
「おまえさぁ、もてないわけでもないのに、
付き合ったりとか結婚とか、そういう考えはないのか?」
「そうだなあ。今は仕事が恋人かな」
 なんとなくの問いになんとなくで答えるものの。……うそだ。
 だれかと付き合うとか、好きとか嫌いとか。
そんなことを話すと、いつも目の前にちらつく顔がある。
どこか暗さを秘めながら、はかなく笑い、
楚々と咲いた日陰の花のような女の子。
そして一緒に浮かぶ――

「お探しの花、ありますか?」
 帰り道に花屋の軒先をすこし眺めていたら声をかけられた。
「あ、いや、なんでも……」
 恥ずかしさに逃げ出しかけて、でも、足を止めた。
 あの花、彼女が好きだといった花はなんだったんだろう?
「えと、それほど探してるわけでもないんですけど」
「はい」
 女の子は元気な笑顔でおれを見る。
「いや、探してると言えば、ずっと探してるんですけど」
「はい」
 くすっと笑う顔に、どこかほっとして。
「えと、あの、紫っぽい小さな花、ありませんか?」
「ええ?」
 あっけにとられたように見る顔に、
「いや、やっぱりいいんです」
「待ってください」
 きびすを返しかけたけれど、ぐっと眉を寄せて
強い目でにらまれた。

「ここで会ったのも何かのご縁。
花の一つも選べずに帰らせたとなれば、
見習いとはいえ花屋の名折れですよ」
 変な子だが、こういうほうが楽な気がする。
「もう少し教えてください。花の大きさってわかります?」
「う……ん、そんなに大きくなかったかな。
このくらい……ん、このくらい、かな?」
 指で示すと、
「4・5センチですね?」
 女の子は言った。
「うん、いや、どうなんでしょう。
小さかった気がしますけど、そうやって数字で言われると、
ちょっと……」
「う〜ん。でも、もしかしたらハナニラじゃないですか? 
葉っぱはどうでした?」
「葉っぱ?」
 花なのに、葉っぱ?
「そうです。丸いなー、とか、
すらっとしてるなー、とか、ありませんか?」
「え、いや、どうかな……」
「うーん」
 その子はちょっと考え込むと店の中へと向かい、
振り向いて声をかけた。

「こちらへどうぞ」
 ついていくと、レジの横にあったメモ帳のようなものに、
ボールペンでさらさらと小さな花の絵を描き始める。
「へええ、うまいもんですね」
「ふふっ、ありがとうございます」
 そういえば、あの子も花の絵を描いてたんだよな。

『うわ、うまいね』
 昼休みの校庭。はしっこの方で座って
もそもそしてるあの子の手元を覗き込んだんだ。
 驚いたような顔がぼくに。
そして、はにかむような、困ったような笑い顔。
『花、好きなの?』
 こくん。黒い髪が揺れる。
気づけば手元のノートみたいなものは
すでに半分くらいまでめくってある。
『ほかにも描いてあるの?』
 こくん。
 驚きだった。隅で勝手に腐るだけ、
腐ったことにも気づかないような転校生。
それが、とても小学生とは思えない絵を描くなんて。
女子と話すきまずさよりも、興味の方が格段に上回った。

『見る……?』
 たぶん、社交辞令だったんだろう。
見せたくないように抱えるノートに、
『うん、見たい』
 それでもぼくはそれを求めた。
 そっと差し出されるものを慎重に受け取り、
丁寧にページを開く。
『すごい、色もついてる』
 どこか路地に咲く、見たこともない花。
『それ、前いたところ』
『へええ』
 説明なんてほんとに耳に入っていたかわからない。
驚きに興奮、新鮮な感動もあって
、ぼくは夢中でページをめくった。
『すっごいな、これ。一番好きなのって、どれ?』
 すると横から細い手が伸びてきて、
ほとんど最初のページまでひっくり返す。
『これ……』

「こんな感じじゃないですか?」
 目の前の女の子の絵。星型……というか、
六角形の花が紙の上に咲いていた。
「ああ、これ、たまにそこらへんに生えてますよね?」
「そうです。ご近所にもありますね。
って、じゃあ、これじゃないですね」
 すこししょんぼりと背中を丸める。
「あ、えと、たしか、見た絵だと
花畑みたいにずらっと咲いていたような」
「絵、ですか? 描いた人、わかります?」
「いや、昔の……」
 とも、だち? 知り合い?
「小学校の、同級生です」
 向かいの子が、ふっと息をもらして笑った。
「え?」
「いいえ。その彼女さん、どこで描いたかわかりませんか?」
 いらずらっぽい口調の……『彼女』? なんで、そんな。
「え、いや、その。来る前にも何回か転校してたらしいですし。
引っ越した先で、思い出にと描いてたみたい、で……?」

『これ、わたしの生まれたところ』
 彼女の声がすこし変わり、ぼくは彼女の顔を見た。
 薄紫色、緑の葉がはるか連なる中、目を細める姿を想像した。
『へえぇ、こんなに広いの?』
『うん。畑いっぱいに花が咲くと、すごくきれい。
一本だけじゃ、やっぱりさみしいよ』
 一本だけ。なんだかその言葉に胸が痛んだ。
転校して一人でいる、あの子の姿と重なったから。
 どんな気持ちで転校したんだろう? 
一緒にいた友達と別れるって、どんなものなんだろう?
 この子もみんなと一緒にいたら、
華やぐように笑っていたのだろうか。
『見てみたいなあ。こんなに咲いてたらきれいだろな』
 するといつもとは違う顔で笑みをこぼし、
『うん、すっごく』
 初めてその子を、女の子を、かわいいと思った。

 ふと気づくと、花屋の子が見上げるように見つめていた。
「う、ああ。場所はわからないんですけど、
花畑かなんかでたくさん咲くんだそうです」
「花農家の子、ですか?」
「いや、うーん、どうなんでしょう」
「もしかして、ラベンダー……じゃないですよね?」
「ラベンダーって、あれですよね、トイレのくさいの」
 女の子は苦笑い。
「あ、すいません。でも、そんなにおいはなかったような」
「えっ?」
「え?」
「見たことあるんですか、その花?」
 ああ、そう言えば……

『これ』
 ある日の夕方、だれかが来たというので出てみたら、
彼女だった。
 抱きかかえるようにした植木鉢には、あの花。
『わ、これが、あれ? でも、咲いてないね』
『あげる』
 差し出す鉢。
『え、でも、いいの?』
『うん』
 女の子から花をもらうなんて、後にも先にもそれだけで。
 ひたすら照れくさかったけど、
その子に属するものをもらえた喜びでいっぱいだった。

「引っ越す前に、もらったんです、植木鉢で」
 なんとなく浮かんでくる、あの姿。
 鉢を受け取ると、湿った土の匂い、それに緑のかおり。
「そのすぐあと、また引っ越していっちゃって。
まだ開きかけのつぼみだったけど、
大切に育てたら薄紫の小さな花がいくつも咲いて……。
きれいだった、それに、あの子にも見せたかったなあ」
「ええ? いくつも、ですか?」
「え? そうですね。なんかこう、
玉みたいな感じでいくつか咲いてましたよ。
こう、植木鉢のところに葉っぱがあって、
ちょっと上のところに花が咲いて」
 手で説明すると、女の子は何かを書き付ける。
「じゃあ、高さはそんなにないんですね?」
「そうですねえ、多分こんなくらいで……
葉っぱが結構もさっとしてた気はしますけど」
「ふーんん、なんだろう」
 書いた文字にぐるぐると丸をつけて頭をひねると、
「それ、いつごろの話ですか?」
「え? たしか小学6年、でしたね」
 答えると気まずそうな顔。

「あ、えっと、時期です。花の」
「ああ、うわぁ。たしか、4月過ぎに来て、
夏休みになる前にはもういなくなっちゃってたから、その間かな」
「なるほど。花の形、もうすこし詳しくわかりませんか?」
「えと、こう……ちまちました感じで」
 女の子がメモとボールペンを差し出し、
受け取って頭の中にある形を描こうとした。
 でも、紙にペンをつけたとたん、
頭の中の姿は急にぼやけて行ってしまう。
「これ……」
 中学校以来だろうか、ずいぶん久しぶりに描いた絵。
「花じゃないですね」
 花屋の子は困り笑いでくすっと息をこぼし、
「でも、きっとだいじょうぶです。
わたしも調べてみますし、あとで店長にも訊いてみますから。
わかったら、連絡いれましょうか?」
「あ、よければお願いします」
 そこで、名前と電話番号を残して帰った。
 わかる、あの花がわかる? あの子の花がわかる……。
 その夜はずっと、胸が騒いで寝られなかった。

 その日からことあるごとに携帯を眺めて、
今までで一番長い4日間を過ごしたあと。
「わかったんですか? あの花」
 連絡を受けて、あわててあの花屋に行った。
 中にはこの前の女の子がいて、気づくと紙を取り出す。
「ほんとにここにあるかはわかりませんけど……」
 何枚かの紙、印刷してあるほうをこっちに向けて、
「まずはこれです」
 そこには薄い青紫の花。
「なんか、山奥に咲いてそうな感じですね」
 口の端だけでひきつった笑みを浮かべる女の子。
「ご明察です。じゃあ、次」
 なんだかスミレみたいなにょろっとした形。
「へえ、面白い形ですね」
「これも違います?」
 そしてもう一枚めくると、
「あれっ?」
 思わず顔を近づけた。
「あ、これ……すごく似てる、ような」
「え、ほんとですか?」
 嬉しそうな声に、
「他の、ほかの花はどんなのです?」
 紙に手を伸ばし、渡されたそれを夢中でめくる。
「ちがう……。ちがう」
 どの写真も思う形にはあわなかった。
「やっぱりこれがすごく似てる気がします。
これ、なんて花です?」
 目の奥に形を重ねながら見ていると、
「じゃがいもです」
 女の子の声に思わず振り返った。
「じゃがいも?」
「意外と花なんて知りませんしね」
「へえ〜、これが、じゃがいも」
 あらためてその花を眺める。
あんなごつごつした無粋なかたまりに
こんなかわいい花が咲くものなのか。

「普通鉢植えになんかしないのに……
よっぽど好きだったんですね」
「ええ、一番好きな花だって言ってました」
 そして、ぼくも。
「これ、ここにあります?」
 訊ねると、
「さすがにじゃがいもの花は置いてないです。
たぶん、どんなお花屋さんでも」
「そうですか」
 がっかりすると、女の子が付け加えた。
「でも、今頃は北の方で畑一面に咲いてるらしいですね」
 はたけ……! そうだ、畑って言ってたっけ。花畑じゃない畑。
 一面に咲くってどんなだろう。
あの子が好きだといった風景はどんなものだろう。
 見たい、と思った。
 なぜだかわからないけど、見たいと思った。
「ありがとうございます。ちょっと……見てきます」
「え、ええっ? ちょっとって、遠いですよ?」
 言ってることはわかったけれど、
その言葉なんてもう何の意味もなかった。
 見たい、ただ見たい。その気持ちだけが
胸からあふれ出しそうだった。

 駅までの戻る道行きに足は速まり、駆け足になり。
それでも止められないまま走り続けた。
 飛行機に乗り、夜を明かし。人に訊ねながらの田舎の電車。
 そして、ぼくはここに立つ。
 地面を吹き抜ける、肌寒い風。
街とは違う空気、土のにおい。こんな窮屈な服を着ているのが
とんでもなくばかばかしく思える景色。
 きっと、彼女のいた場所もこんな風景だったのだろう。
 信じられないほどだだっ広い土地の中に彼女の存在を想い。
 しあわせでいてくれればいいな、とぼくは思った。