――ずっと気になってた。
豊かではなかったが、貧しくも無かった農村の暮らし。
幼なじみの女の子。
とても優しい子だった。誰かが、何かが傷つくのを恐れ、
自分が一番傷つくような子だった。あの子が一撫ですると
痛みがやわらぎ、そっとさすると傷すら治った。
たぶん、そのせいなんだろう。彼女はどこかへ行ってしまった。
大きくなったら一緒に暮らそうと約束してたのに。
あれは……彼女は、君なんだろう?」
ぼくは、応接室らしい部屋で、向かいで
こぢんまりと座る女の子に訊ねた。
するとその子は老人のような深みのある笑顔を浮かべ、
「では、あなたが、あの……。ずいぶん見違えましたね」
「やっぱり!」
思わず叫んでいた。
「ずっと探してたんだ。いまは村を出て、
小さな新聞社に勤めてる」
腕に巻いた取材用の腕章をさすり、
「まだ下働きだけど、贅沢はしなければ
一緒に暮らせるだけのお金はもらえるんだ
。産業革命さまさまだよ」
そしてぼくは小さな彼女を見た。
「一緒に……来てくれるよね?」
彼女は一瞬ぱっと見た目のような幼い笑みに顔を輝かせたが、
でも次の瞬間にはぼくよりも年をとった顔で首を振った。
「無理です。わたしが何をしているか、知っているでしょう?」
「なにが聖少女だ。神から授かった、人を癒す力を
金のためだけに使ってるって評判じゃないか。
どうせ君はそんなこと望んで無いくせに」
「でも、わたしには、恩があります。
ここまでわたしを育ててくれた恩義を捨てて
ここを去るわけにはいきません」
「なら……なんで」
手を握りこみ、
「そうならどうして、そんなつらそうな顔をしてるんだよ」
彼女は言葉につまった顔を背ける。
「ぼくを見て。ぼくは君にどう見える?
あの頃に比べて、ぼくはこんな無様に大きくなった」
「そんなことない。すてきな青年じゃない」
「じゃあ、君は? なんで君はあの時見たままの姿なんだ」
「わたしは、たぶん……特別だから」
「なにが特別だ!」
思わず怒鳴った声に、小さな体がびくっと跳ねる。
「君はただちょっと他と違うだけの、普通の女の子じゃないか」
「え……?」
驚いた顔。
「ぼくなんか普通の最たるものだ。
でも、ぼくにだって他の人と違うところはある。
きみだって他の人と違うところはあって、でも、それは普通だろ」
すると彼女は嬉しそうに、さびしそうに目を細めて、
「すごいね。あなたはずいぶん大人になったんだ」
その言葉がなんだかとても悲しくて。
「なあ、ここから出よう? 君はここにいちゃいけない」
けれど、彼女は何も言わなかった。
「君のその体、小さいままだけど……。気づいてる?
肌もぼろぼろだし、髪も……。なんだかこどもよりも、
小さな年寄りみたいだ」
ぴくりと揺れる体。
「もしかしたら君は、傷を治してるんじゃなくて、
自分の命を分け与えてるだけなんじゃないのか?」
言葉がその場に散っていき、しばらくしてようやく、
彼女の小さな頭が下がった。
「ならだめだ。なんと言われようと、ぼくは君を連れて行くよ」
立ち上がり、無理やりにでも連れ出そうと構えたけれど、
ぼくを見上げた彼女は細い手をそっと差し出した。
軽い彼女を抱きかかえ、いすを壁につけて窓を開ける。
そこから飛び降りると、ただひたすらにぼくは走った。
門を抜けるとき誰かが何かを叫んだ気がする。
国のお偉いや金持ちも頼ってくるという彼女だ。
つかまればきっと連れ戻される。
こんな、こんなところでつかまるわけにはいかない。
「――……!!」
だれかの声。
一瞬何か衝撃が走り、遅れてひどい痛みがやってきた。
な、なんだ?
思わずつぶやこうとした口から、ごぼりと何かがあふれる。
むせてしまって咳き込むと、赤いものが飛び散るのがわかった。
地面に横たわるぼく。頭の上にある影は……馬か。
どうやら馬車馬に踏まれたらしいな。
「だいじょうぶか。しっかりしろ!」
足をつかまれ、下に引かれた。視界が開け、
工場の煙に灰色に染まる空が見える。
それから、彼女の顔。
『よかった、ぶじだった?』
声の代わりに血があふれる。あんなに痛かったはずなのに、
なんだかもうあまり痛みも感じない。
彼女はひどくつらそうな顔をすると、ぼくの体に手を置いた。
その顔が神聖な輝きを映し出し、彼女の触れている場所が
だんだんと温かくなる。
気持ちよくて眠ってしまいそうになるのも束の間、
じんじんと、そしてびりびりと痛みが走り出す。
そしてやけどしてしまいそうな熱さ。
なんだ、ぼくはどうなってるんだ?
「気をしっかりもって。だいじょうぶだから」
そっと彼女が呼びかける。
まさか、彼女が――?
「いい……だ、や……てくれ」
彼女への言葉はちいさな空気となって散っていく。
いいんだ、やめてくれ。君はもう自由なんだ。
ここで死ぬのはもしかしたらぼくの運命だったのかもしれない。
彼女は苦しそうに顔をゆがめ、額からは汗が流れる。
ぼくを救う彼女の手。彼女から失われていく力。
「もういいんだ。ぼくならもういいから」
ぼくの声が、確かな音を伴って口から飛び出る。
彼女はずいぶんと疲れた顔でぼくの顔を見てかすかに笑った。
「ずっと、悩んでた。誰を救って、誰を切り捨てるのか。
わたしが手当すれば救える人がいる。
わたしが手当てしなければ死ぬ人がいる。
でも、誰かが死ぬのはわたしのせい?
わたしが何もしなかったから、死ぬと言うの?
……つらかった。わたしの手が短いのが苦しかった。
手の届くところにいる人は救えても、その外の人は救えない。」
泣きそうな顔の彼女は、うつろな目でぼくを見る。
「わたしが助けた人が、たくさんの人を殺した。
その人が死んでいれば、死なずに済んだ人がたくさんいた。
わたしは誰かを救える気になっても、
本当はだれも救っていなかったのかもしれない。
こんな力、ずっといらないと思ってたけど……」
ふらりとゆれた頭がぼくの胸の上に倒れ、
「でも、最後にあなたを救えてよかった」
消えそうな声でつぶやいた。
その頭、その体は飛んでしまいそうなほど軽く。
「なに言ってるんだよ」
ぼくは小さな体を抱きしめながら、ぎこちない上体を起こした。
「救えてない。ぼくは救われて無いぞ。
ぼくのために君が命を落としたなんて思ったら、
どこにも救いはないじゃないか。君がいなくちゃ、
君が生きてなきゃだめなんだよ」
でも腕の中、少女の体は死んだ虫のように何一つ動かなかった。
「なんてことだ!」
まわりから、声。
「聖少女さまがお倒れになった。この方は女王様や
この国の大事な方々を守ることのできる唯一のお方だったのに。
おまえのような者が関わってよいものではなかったのだぞ!」
それは、あの屋敷に入るときに見かけた顔だった。
「ふざけるな!」
ぼくは叫んでいた。
「どれだけ彼女のことを見ていた?
彼女が自分の命を削っていたことくらい、
気づかなかったわけないだろう」
憎かった。ひたすら悔しかった。
「彼女になにをさせた? 彼女がどれだけの救いを与えて……」
涙に震えてしまいそうなのどをぐっと押さえて。
「あんたたちは、彼女になにを返したんだ!」