その日、わたしはまた津波のように襲ってきた
死の恐怖に狂っていた。
何の変化もない日々。とりえもなく社会にも
受け入れられないわたし。
このまま後の長い年月をただ腐っていくのかと思うと、
今日にでも死んでしまいたい気持ちでいっぱいだった。
なのに死ぬのが怖い。生きているのも怖い。
なんて言ったのかは覚えていない。
でも思うままに吐き出すと、やわらかくほほえんで師匠は言った。
「ねえ、文字を生んだものは何だと思う?
それに、進化を促すものは?」
「……?」
言葉なく見つめるわたしに、
「それは、『死』」
「え?」
信じられずに聞き返すと、
「死はすべての終わりじゃない。だからこそ人は文字を作った。
たとえ今の自分たちが死のうとも、
そこで生み出されたものが生きていけるようにと。
そうやって、のちの人があらたな段階へと進めるような
礎はきづかれていくもの」
そう言ってわたしの頭に手を乗せた。
「確かに、死には悲しい面もある。
どんなに優れた人間をも無へと返してしまう。
けれど、そのひとたちも死があるからこそ、生きている間に
事をなしとげようとすることができたんじゃない?
それに、もし、死がなければ生はありえない。
新たな命が生まれる必要がなくなってしまうんだから。
そして、死なない人間は、死がないことで生もなく、
人間とは別のイキモノになってしまう」
それから一呼吸置き、
「ある時代に生きた人々の軌跡を線でたとえるなら、
それは絵を描くときの下描きの線。
たいてい下描きは一本じゃ描かないでしょ?
何本もなんぼんも、大きな形から絞り込んで
もっともよい形へと近づけていく。
その線の一本いっぽんが、別の時代の目というもの。
だからこそ、死は必要になる」
わたしの頭を辿る手をそっと離し、
すこしいたずらっぽい目を合わせた。
「それに、こんな話。
『にわとりと卵はどっちが先にあったか』って」
「どうなんですか?」
「はじめにあったのは、たまご」
「どうしてです?」
「はじめの鳥は、まだにわとりじゃなかった。
世代交代という流れのうちに、運命によって定められた
必然の『偶然』が起こり、その時代に生きるものが
思いもかけなかったものが生まれたりする。
そうしてにわとりでないもの、は卵を産み、
その中ににわとりとなる命が宿った。それが、死の力。
死は新たなものを生み出せる。
だから、死は豊かなものだったのに……。
今では無味乾燥なものへとおとしめられてしまった」
「でも」
わたしは言った。
「死はなんにでもおとづれるし、生にとって必要なもの。
それはわかります。けど、その『生』は
なんのためにあるんですか?
なぜ先達を越えなきゃいけないんです?
最後にはすべてが、この星も、宇宙だって死んじゃうのに。
でも、もし神がいる、としたら。
死を司る神は大鎌を持ってます。
その鎌は稲刈りや小麦刈りのときと同じ役目を持っていて……
実りあるものを刈り取るんです。
人生の青春、赤夏、白秋を過ぎて、豊かにみのった人間の魂を
刈り取っていきます。もちろん、食べるために。
だから言うのかもしれません、『天に召された』って。
結局わたしたちは神に食べられるために
生きてるって考えると……先人を超えてゆくことは、
よりおいしく召し上がっていただくための品種改良ぐらいにしか
すぎないんじゃないですか? どう考えてもむなしいのは
『死』じゃなくて『生』だと思うんです」
一気に言うと、先生はほほえみの残る顔に小さく眉を寄せて
考える表情を見せた。
そして一言一言確かめるように言葉を出す。
「本来、生きること自体には本当に意味がないのかもしれない。
もしかしたらすべてが神様か何かの
壮大な計画の一部なのかもしれない。
でも、だとしてもそれがなに?
行きたくなくても行かされる遠足。
その道のりは学校の満足のためのものかもしれない。
けど、その途中を楽しむことだってできる。
行程や行動は決められているとしても、心だけは自由。
生が無常でむなしいものでも、自分までむなしくすることは
ないんじゃないかな。
終わりは海にそそぐ川でも、その途中ではいろんな水と交わり、
別れ、恵みをあたえる。そんな豊かなものになれたなら、
いい人生だったと思うけど」
師匠の言葉を思い、自分の中に入れていると
穏やかな声が響いた。
「解釈も生きかたも、あなたに合うものは違うかもしれない。
でも、精一杯考え、悩みなさい。
それが若いっていうことなんだから」
わたしの何倍もの時間を生きてきた師匠は、
どこか遠くを見るような目でわたしを見つめ、笑った。