ある日、なんでもない日、家に手紙が届いた。
両面に何かの呪いかと思わせる怪しげな記号が書かれ、
表面にだけは端の方に丸い字で
わたしの住所と名前が書いてあった。
「なにこれ……?」
とりあえず磁石で一通り封筒の外をなぞり、日に透かしてみて。
異常がないのを確かめてから開けてみる。
中には折りたたまれた紙が何枚か。
広い縦罫線の間には例の記号が十何行か並んでいた。
……どんな嫌がらせか謎かけかはわからないけど、
わたしに読めと言うのなら読んでやろうじゃない!
まずは封筒を取り、裏側。書くものを横に置き、
一文字一文字解読していくと、差出人の名前は――
「師匠!?」
あんまのお師匠のおばあちゃん先生。
わたしが引っ越してからも年始と夏の便りは
いつもきれいな字でくれてたのに。
あわてて中身を取り出し、急いでは読めない文字を
もどかしく書き写していった。
そしてできたのはたぶん、こんな文章。
こんな手紙でごめんなさい。脳卒中で倒れてしまい、
今は病院でリハビリにと書いています。
手術は成功しました。心配しないでください。
一度死にかけたらしいですが、
なんのいたずらかまた戻ってきました。
命は不思議なものだと思いませんか?
母から生まれたら生まれたきり、
死ぬまでの命を生き続けるなんて。
わたしは、一人の命とはひとつぶの水玉だと考えます。
すべての命の源である命の川があり、
そこから跳ねた水玉が落ちてくるのが一生。
十月十日という一生に比べれば短すぎる時間で、
母親は命を頂点まで加速させるのです。
横軸は時間。進む時間を一定にすると、
縦軸の体感時間の線分は長くなり、
歳を取るたびに過ぎ去る時間が早くなるのも
そのようなものかと思います。
そしてまた川に落ちたとき、
跳ねさせた小さな水玉は人の目に落ち、涙になるのでしょう。
他人の人生は、涙の一粒。良くも悪くも、それが水玉の人生。
どうか、わたしのことは気にせず、元気でいてください。
「どうして……!」
こんな、さみしいこと。
気にしないでって言ったって、
気にしないわけないじゃないですか。
不自由な手で、それでも一所懸命にしたためたはずの
おぼつかない文字の手紙を眺めていたら、
頬にいくつも水玉が転がっていった。