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2006-11-10
あまね
 高校の頃お世話になって以来、わたしの師であり、
頼りでもあったおばあちゃん先生が老人ホームに入ってから一年。
 わたしも引っ越してしまい
そうそう会えなくなってしまったけれど、
何かと用事を作っては顔を出しに行くときには
今までと変わらない穏やかな先生がいた。
 人間一度年を取ってしまえば流れる時間は緩やかになる。
すこしごたごたとしたけれど、
このままこうして過ぎていくんだとなんとなく思っていた。

 でも、ある日。
「もう、ここには来ないで欲しい」
 いつものような穏やかな顔から出たのは、思いもしない言葉。
「え、え? どうしてですか?」
「もうね、頭がいい感じにわけわかんなくなって来ちゃって、
本も物もすぐどっかいっちゃうんだ」
 あきらめたような軽い笑いで。
「ここに入れられたのだって、『お金を盗んだ』って
わたしが孫に言うからだっていうんだ。
わたしは全然知らないけどね」
「え、でも、それなら……えと」
「怖いんだ」
 小さく頭を振り、
「知らないところで自分がどんどん壊れてくみたい。
生きてきた歴史もぽっかり抜け落ちて、
いつか何がなくなったかも、それが怖いことだってことも
わからなくなると思う。
今は、それがすごく怖い」
「そんな」
 いつもどこか飄々としていた先生。その口から出るこんな話は、
わたしの頭から血の気をひかせていった。
「わたしは自分の歴史がなくなるのが怖い。
生きてきた証がなくなるのが怖い。
だから……わたしたちの名前、受け取ってもらえない?」
「え?」
 見ていられずにそらした目を上げると、
先生は寂しげにほほ笑んでいた。
「だいじょうぶ。年寄りがおかしくなって言ってるわけじゃない」
 どこか自虐的な言葉と笑い。
「え……だって、わたし、あんま師でもないし、
これからもなれませんよ」
「それでいい。これは、わたしのわがまま。
この名を使おうと使うまいと、それでいい。
もともとはじめの人はなにかの先生で、
天地の理あまねく見せたまえ、と願って名宣ったみたい。
あの人が死ぬときにもらっただけだから
わたしもすべての人を知ってるわけじゃないけど……」
「でも……でも、そんな」
「重荷に思わないで。そんなたいしたものじゃない、
ただの民草のそよぐ音。でももしあなたが何かに迷うとき、
その背を押す力になってくれたらすごく嬉しい。
あなたがそれを思うとき、わたしも、わたしたちも
きっとそこにいるんだから」
「でも、そんな。先生は先生じゃなきゃ……」
 笑み。
「わかる。あなたが何を言いたいかも、たぶんわかるつもり。
でも、もうわたしに残る時間はそれほどないかもしれない。
だから、あなたの中のわたしはきれいでいさせて。
あなたが先生と呼ぶわたしを先生のままにしておいて」
 すりつぶされてなにかが出てしまいそうな胸の中、
言葉があふれてわたしは言った。
「嫌です! 本物をどけておきれいな記憶だけ残して
終わろうなんて、先生じゃないです」
 驚いた顔をしたけれど、先生はそれから悲しそうな、
それでもどこかいとおしそうな目でわたしを見た。
 元気な頃の先生なら。こんなに弱気じゃない先生なら、
その言葉できっと強い笑顔になるはずだった。
でも、そうならない。どこかですべてをあきらめている気がする。

「わたしは、また来ますよ」
 背を向け、扉に手をかける。
「いただいたこの名で何かをなし遂げたら……その時は。
これが成れの果てだって先生を笑いに来ますよ」
 震える唇からは揺れる声。笑ってみせたかったけど、
涙をこらえるだけで精一杯だった。
 扉を開け、出て行くわたしに先生は言う。
「ありがとう」
 悲しくて、悔しくて。
 わたしは震える唇をかみしめ、こらえきれない涙をこぼした。