0006
2003-07-18
鞭打つ人々
 彼女は蒸気機関車だった。

 いくつもの野を越え、いくつもの山を越え、
数え切れないほどの人々を運んできた。
だが、今はもう、できない。

四十年に渡る歳月で体を蝕まれ、
走れなくなった彼女は
最後の岐路から引込み線に入れられた。

 どんな線路も走ってきた彼女だが、
その先がどこに通じているのかは知らない。
そこは、用済みの機関車が捨てられる路(みち)であったから。

 彼女は後ろ向きに坂を下る。
いつ線路が途切れるのか彼女はわからない。
もしかすると、すぐ後ろにはもうレールはないのかもしれない。
しかし彼女はあきらめていなかった。そして、彼女の相棒も。

「……がんばれ」

 ブレーキハンドルを強く握り締めて、機関士は言った。
目一杯ブレーキをきかせていても
ほとんど動かない圧力計を祈るような気持ちで見つめながら。

「おれはさ、ずっとおまえに乗っけてもらってきた。
機関士になったときからもう二十年以上、
お前といっしょにいるんだよ。
それが……お前がいなくなったら、おれはどうすればいい?」
 ゆっくりと、だが確実に後ろに流れ去っていく景色。

「知ってるか? おまえより型が古くても
まだ走り続けてる汽車だっているんだ。
そもそも、八十年はもつって話なんだぞ」
 彼は深く息を吸い……
「なのに……おまえだけが、なんで」
 ため息と共に吐き出した。

 彼は整備士の言葉を思い出す。
『どんなに同じように見えても、
やっぱり一台一台違うんですよ』
 あぶらまみれの黒ずんだ服を
誇らしげに着こなした男は言った。
『もちろん、いままでどんな走りをして、
どんな整備をしてきたかでも変わります。
でも、いつ壊れるか、こればっかりは
神様にしかわかりません』
「どうにか……直してやるわけには?」
 長年連れ添ってきた仲間だ。
青春も喜びも挫折も彼女と共にあった。
だからこそ、せめて自分が引退するまでは乗り続けたい。
彼は思う。

『残念ながら』
 整備士は首を振った。
『修理できるところはあらかた直しました。
でも、蒸気は漏れ出すし、ブレーキも利かない。
足回りもだいぶ悪くなってるから、
直すとすれば全部取り替えるしかありませんよ』
 機関士は深くため息をつく。

 坂を。谷へと続くこの坂を登ればなんとでもなるんだ!
「……くそっ!」
 彼はブレーキハンドルを乱暴に戻し、バイパス弁を閉じた。
逃がしていた蒸気が機関を回り、彼女に力を与える。
逆転機の位置を確認、加減弁を開くと機関車は足を動かし始め、
レールとの軋轢できいきいと叫び声をあげた。
登ろうとする車と押し下げようとする力。
いきごみだけが空転する。

 彼は心臓の鼓動にも似た彼女の吐く息を耳で確かめながら、
逆転機を慎重に開いていった。
「あせるな……あせるな……」
 彼はつぶやく。たった一人での走行。あせりは事故を産む。
 汗ばむ手でハンドルを握り、息を殺して彼女の声を聞いた。
「これで……どうだ」
 積年の経験と勘。彼はハンドルを放し、
車輪に噛ませるための砂を撒く。……すると。
 ぎぃいい〜! ぎぃいい〜!
 もがき苦しむ悲鳴にも似た金音が耳を突き刺した。

「お願いだ……! がんばってくれ!」
 だが、汽車は依然として前に進まない。
なにかに道引かれるように
後ろへと引きずられていくだけだった。
「だめなのか? 砂だけじゃ……?」
 彼は奥歯を噛み締めて、火室を振り返った。
石炭はまだかなりの量がある。
しかしこれ以上使えば、
そろそろただの石炭ではなくなるはずだ。

 『もし、望むなら』。整備士は言った。
『石炭に混ぜ物をすることで、
彼女は今までにないほどの力を出せるかもしれません』。
 それが何を意味しているのかは機関士にもわかった。

 はげしく燃やせば力は出るかもしれないが、それは一時だ。
無理をさせれば釜もシリンダーも寿命を縮め、
たとえ坂を登っても後でどうなるかわからない。
……だがそこまでしなくては、
もう彼女が走ることはできないのだ。

 せめてあの坂を登りきって欲しい。
彼と整備士は願った。だから、ほんとうにだめなとき。
すべてのことを試して、それでもだめなときに使えるようにと、
はじめだけはただの石炭を詰めて
本来の力だけで走らせようとした。
……その時間が、終わる。

「まだ……だめなのか?」
 彼女のためになけなしの金は全て費やした。
ブレーキも試したし、進ませようともした。
砂も撒いた。できることは全て試した。
もう、残っている手段はこれしかない。

 彼は火室に近づくと一気に石炭を釜に流し込み、
一息入れて水量を上げ始めた。
 密度の濃い空気が のそっと彼を押し出すように広がり、
目も開けていられなくする。
彼女の心臓は赤く燃え、機関士の顔の産毛を
ちりちりと焦がしはじめる。

「すまん……! がんばってくれ!」
 ドレイン弁のレバーを引くと、
間欠泉のような熱い音を立てて、たまった水が噴き出した。

 室内は煮えるような熱さだった。
だが彼は目をこじ開け、ゲージをにらみつける。
水面計、石炭量、ボイラー圧力、シリンダー圧力……。
一歩間違えば管が破裂するだろう。

 彼は手袋の指を襟元にさしこむと軽く揺すった。
しかしほんのわずかにも涼しくはならない。
頭から体から、止まることなく汗は吹き出し、
染み込んだ汗が布を肌に張り付かせる。
「う……」
 くらくらする頭に、
機関士は半歩あとずさって上体をそらす。

「…………!」

 その耳をかすかに撫でていく言葉。
 空耳か? 彼は思う。
しかし、彼女の荒い息の向こう、
だれかがささやくような声が聞こえる。

「なんだ……?」
 ふと外を見ると、線路の脇には人の垣根ができていた。
「……がんばれ!」
「がんばれ!」
 たぶん、そんなことを口々に叫んでは手を振っている。
 彼女は……機関車はその人々を知っていた。
かつて自分が運んだ者たち。
彼女のことを聞いて、駆けつけてくれたのだ。

 機関士は泪と汗を混ぜて笑った。
「おい、聞こえるか? 
おまえのこと励ましに来てくれたんだよ。
……おまえももっとがんばんなきゃな!」

 ――ボーオー!

 応えるように汽笛を鳴らす。
ピストンが激しく動き、ロッドが回転する。
彼女の車輪は線路を噛み、這い上がる気迫を伝えた。
「そうだ! がんばれ!」
 飛び上がるように驚いて、機関士は叫ぶ。
「がんばれ! がんばれ!」
 周りの人々も声を張り上げた。
彼女は車輪を食いしばり、力を振り絞って登ろうとする。

 自分のために応援してくれる人がこんなにもいる、
それが彼女に力を与えた。
その声に応えたいと機関車は一心に願う。
 彼女は必死に車輪を回した。
砂に頼り、体を溶かすような火にもすがって。

 体が軋む。機関が唸る。
だが彼女は進むことだけに集中した。

 あと少し、もうすこし……! 
彼女は目の前の枕木を見つめる。
だが一本二本を乗り越えたころで、
体の下から今越えたばかりの枕木が出て
すこしずつ鼻先から離れだした。

 認めないようにさらに気を吐く。
深く蒸気をため、吹き上げ、力を出す。
痛みにも熱にも必死に耐えた。

 だが、枕木は止まらない。
冷たく延びたレールは、目の前の景色を
かつていた遠くの場所へと運んでいってしまう。

 彼女はゆっくりと坂を下っていく。
ゆっくり、ゆっくりと。

 いつか戻れると信じ、ひたすらに見つめていた枕木。
もう止まることなく流れ続ける。

 そして、彼女は急激に理解した。
なぜ、人々がここにいるのか、
それに自分がどうあるのかを。

 彼女は思った。
自分はもう、後がないほどに悪くなっている。
だから、彼らは来た。
今を逃しては今生でまた会う事はないから。
最後の別れをするために、
そのためだけに彼らは来たのだと。

「がんばれ!」

 張り上げられた声援に、彼女の内側が煮えたぎる。
 最後だとわかっている、
もう登れないとわかっているから来た人間が
なにをがんばれと言うのだろう。

 機関士は彼女の異変に気付いた。
……蒸気圧が高すぎる。
 彼は石炭を絞ろうとしたが、止められない。
水も止められず、バイパス弁も開かず、
加減弁も逆転機も動かない。
 陽炎のように揺らめく釜は近くに寄ることさえ拒絶する。
くすんだ黒の釜が赤くなっているようにも見えた。

 彼は気圧されるように遠ざかる。
「どうしたんだ……!」
 愕然とつぶやく。
彼には彼女が突然違う何かに変わってしまったように見えた。
これが長年一緒にやってきた仲間の姿なのか?
「もうすこし、がんばってくれ……!」
 祈るように口にする。
……確かに無茶はさせた。
でも、まだ耐えられるはずだろう? 
これも、お前のためを思ってのことなんだ。

「がんばれ!」

 だが、限界だった。
あまりの熱に彼の身が焦がれ、
すこしでも気を抜いた瞬間、倒れてしまいそうだった。
それに、機関車もいつ爆発しても
おかしくないほどに蒸気をためている。

「……くそっ」
 悔しそうに吐き捨てて、彼は飛び降りた。

 だれもいない機関車は歯軋りしながら車輪を回す。
ただ悔しくて、苦しくて。
 がんばれ、がんばれ。
その言葉のひとつひとつが台車に積まれた重荷のように、
彼女を坂の下へと引きずり下ろす。

 そのとき、彼女の中に一人の婦人が
するりと乗り込んできた。
 機関車は婦人を追い出すように
さらに炎をあげたが、婦人はものともせずに辺りを見回す。
そして目を細めると、
「すごく、きれい」
 そう、言ったのだ。
薄汚れて古ぼけた車内は
だれもがおせじにもきれいとは言えないものだった。
だが彼女は煤けたハンドルを、レバーを、
筋張った手で愛しそうに撫でさする。

「わたし、あなたのおかげでがんばれたのよ」
 ひとつひとつ、確かめるように触れながら、
婦人は言った。
「わたしが女学生だった頃から
あなたにはお世話になってた。
お休みに家に帰るときも、街に出るときも、
いっつもあなたが運んでくれた。
結婚して、新しい家に引っ越すときもそう。
……なんだか、あなたとは親友みたいね」
 顔をほころばせて、品のある笑顔を見せる。
そして、ため息をひとつ。

「この前ね、うちの主人が死んだの。
今までにもいろいろつらいことや
悲しいことがあったけど……これにくらべたら。
その度にあなたに乗って逃げ出そうって何度も思った。
でも、力強い汽笛に、勇敢な走り。
あなたを見てたら励まされる気がして、
こうしてがんばって来られた」
 婦人はほほえんで、天井を見上げる。

「ありがとう。それに、お疲れさま。
……あなた、ほんとうにきれいよ。
この体、このすべてで
ずっと走り続けてきたんですものね」
 婦人の言葉に、機関車は
自分の全てが美しくなるのを感じた。
周りの刺さるような励ましも、
もう耳には入らなかった。

「なにかわたしにもできることがあるといいんだけれど」
 声高に、汽笛が鳴った。
叫ぶように、彼女はないた。
 婦人が触れると痛みが和らぐ。
一撫ですると石炭が止まり、
さすられるとバイパス弁が開いた。
行き場を失っていた蒸気が外へと抜け出し、
破裂しそうな苦しみが引く。
開けられたコックから水が勢いよくこぼれ出て、
まだ熱を持つ中心を冷ましていった。
溢れるばかりの水蒸気がためいきのように吹き出し、
こもった熱気が逃げていく。

 二度、三度。長く、ながく彼女は泣き声を上げた。
体の中の憤りを吐き出すように泣くたびに、
体がなにか別のもので満たされていくのを感じた。

 がんばれ、がんばれ。
相変わらず外では声が聞こえていたが、
もう心動かされる事はなかった。
 ひとしきり泣き終えると彼女は眠り、
婦人はそっと外へと出る。
 穏やかな機関車。
彼女は静かな眠りに身をまかせた。
 そして――安らかな最後を彼女は迎えたのだった。