0013
2003-07-23
歴史学者
 わたしは自分の目を疑った。

 外回りの営業を終えて会社へ帰る途中。
人気のない道路で信号待ちをするわたしの横を
五十センチくらいの光の玉が
ゆっくりと流れていったのだ。

 ばかな! 
わたしは目を凝らした。

しかし、それはたしかに
夕闇の中をふわふわと車道へ飛んでゆく。

 瞬間、激しいブレーキ音がして……
次の瞬間には二台の車が真正面から衝突していた。

 すべてが、一瞬だった。
 光の玉を避けようとした一台の車が
急ハンドルを切り、もう一台にぶつかる。
そして気付いたときには光の玉は消え去り、
あとには無残な車の残骸だけが残っていた。

 わたしはしばらく呆然と道路に立ちつくしていた。
なにをしていいかもわからなく、
自分がここにあることさえ忘れていた。

「わぁ、すごーい!」
 場違いな声に ふと我に帰る。
見れば、どこからやって来たのか、
ぶくぶくと肥えたおばさん連中が
四人ほど車のそばで騒いでいる。
「さっきの音、これだあ」
「やあねえ、事故なんて」
 その言葉に、わたしの胸の中に黒いものが沸きあがる。

「中の人、死んでるんじゃない」
「えっ、うそ? どれどれ、見せて」
 四人は二台の車の中を覗き込んだ。
「すごい! こんなところで
こんな事故しちゃうなんてはじめて!」
「世紀の大発見!」
 どこか興奮したように言い騒ぐ。

 見世物じゃない。さっさと失せろ! 
わたしは心で叫んだ。そしてようやく思いつく。
 いけない、電話――!

 動かない足を地面からはがし、
わたしは公衆電話を探しに向かう。
 しかし、見つからない。
さんざん探し回るうちに
遠くから救急車の音が聞こえ、
あの場所の方向で止まるのが聞こえた。

 だれかが通報したのだろうとほっとして、
とりあえず現場に戻ることにする。
 わたしが到着するのと同じくして救急車は発進し、
あとには騒がしい人垣だけが残っていた。

「ええ、ええ、そうなんですよ」
 中から聞き覚えのある不愉快な声が聞こえて、
わたしは覗き込む。
「そりゃあすごかったんですよ」
 事故車からすこし離れたところで
おばさん連中が警官の前で
大げさに手をふりまわし、得意げに語っていた。

「あのブレーキの跡を見てくださいよ。
それまでもふらふら走ってたんですけど、
よそみしてたんでしょうね。
いきなりブレーキを踏んでハンドルをきったんですよ」
 ……なに?
「そして対向車線に飛び出して、
向こうも避けようがないでしょ? 
ブレーキを踏んだんですけど
間に合わずにガシャーンって」

 うそだ! あの事故はそんなじゃなかった。
そもそも見ていたのはわたしだけのはずなのに。
なんでこいつらは見てもいないことを
見たように言えるんだ?
「ほかに目撃した方はいませんでしたか?」
 警官は訊く。
「いえ、いませんよ。たしかにわたしたちだけだったわよねえ?」
「ねーえ」
 顔を見合わせておばさん連中はうなづきあった。

「まっ、待ってくださいよ。わたし、見てました」
 思わず手をあげて、人ごみをかき分ける。
「なあに、あなた? 見てもいないのにしゃしゃり出て」
「やあね、目立ちたがりって」
 おばさん連中の言葉に軽く眉をひそめて、警官が訊いた。
「あなたは?」
「わたしは事故の直前、
あそこの横断歩道で信号待ちをしていたんです」
 警官はわたしの言葉に興味を持ったようだった。
「ほう、それで?」
「そしたらわたしの横を
五十センチくらいの光の玉が横切り、
車道に出たんです。それを避けようとして、
あの車がハンドルを切り……」
「あははは!」
 おばさんが笑った。
「光の玉? あなたクスリでもやってたんじゃないの?」
「ありえない、ありえない。
うそならもっとマシなのつきなさいよ」
 そして面白そうにげらげらと笑いあう。
見ると、警官もどこか困った顔で目をそらした。

 ……確かにありえないことだ。
でも、ありえなくても事実なんだ。
どうしてそれがわからない!

「あの……とりあえず、
名前と住所と電話、教えていただけますか? 
必要があれば後にお訊ねしますので」
 だめだ……。だれもわたしの言葉など信じない。
 失意のうちに家路につき、次の日。
あの事故の運転手が二人とも死んだと新聞で知った。
これで当事者はもういない。

 ……こうして。
あの無恥な者たちの
いかにももっともらしい嘘が、
歴史の真実となってしまったのだった。