0020
2003-10-01
国の礎
「これは受理できませんねえ」
 わたしたちの婚姻届を前に、
窓口の男は眉を寄せる。

 ……言われた。
もしかしたら気付かれないかと思ったのに。

「ど……どうしてですか?」
 訊ねるとごていねいに
紙の上下を逆にしてわたしたちに示し、
「ほら、ここ。あなたがたおふたかた、
両方右利きですよね? 
……婚姻は右利きと左利きでするのを
知らないわけじゃないでしょう?」
「で、でも……。どうしてだめなんですか?」

 薄笑いを浮かべる役人。
「法律にあるんですよ。
『第二十四条、婚姻・利き腕の平等。
婚姻は、お互い異なる利き腕の者の
合意のみに基づいて成立し、
両人が同等の権利を有することを基本として、
相互の協力により、維持されなければならない』」
 得意げに諳んじる男。
さらに続けようとする言葉を遮る。

「二十四条の二。
『配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、
離婚並びに婚姻及び家族に関する
その他の事項に関しては、法律は、
個人の尊厳と各利き腕の者の本質的平等に立脚して、
制定されなければならない』」
 わたしが言うと意外だと言う顔で見る。

「そんなの知ってます。
どうして異なる利き腕じゃないと
結婚できないのか訊きたいんです」
 つまらなそうな顔をする役人。

「そんなの、手をつないだときに
両方の利き腕をあけておかないと危険だからでしょう」
「結婚するからって手をつなぐとも限りませんよね」
 くってかかると、男はさらにいやそうな顔になる。

「相続の問題は? 
右利きの財産だけがこどもに受け継がれると、
右利き有利の社会になりますよ」
「それは左利きだって同じです。
こどもを産まない家庭だってありますよね」
「でも……」

 ぐだぐだ言い続けようとする役人に、
わたしは机をたたきつけて叫んだ。
「憲法第十四条にはこうあります。
『すべて国民は法の下に平等であって、
人種・信条・利き腕・社会的身分・又は門地により、
政治的・経済的又は社会的関係において、
差別されない』。
そして第十三条には、
『すべて国民は、個人として尊重される。
生命、自由及び幸福追求に対する
国民の権利については、
公共の福祉に反しない限り、
立法その他の国政の上で、
最大の尊重を必要とする』!」
 まくしたてるように言い切って、
わたしは深く息を吸い込んだ。

「第十四条によれば、
国民は利き腕によって政治的・経済的又は
社会的関係において差別されないことになってますよね。
でも、それがどうですか? 
右利きだけが左利きと婚姻できること、
言い方を変えれば、右利きだけしか
左利きと婚姻できないことは差別ではないんですか? 
個人としての尊重はどこへ行ったんですか?」

 言いながらこみ上げてしまって、
ぼろぼろと泪がこぼれてくる。
そんなわたしを後ろから抱きしめてくれるひとがいる。
……わたしの大好きなひと。
はげまされて言葉をつないだ。

「すべて国民は『個人として』尊重されるのであって、
『右利き・左利き』として
尊重されるのではないはずです。
それとも、同じ利き腕同士の結婚は
憲法の第十三条に言う、『公共の福祉に反』するって
いうんですか?」
 でも男が言う言葉は。

「おっしゃることはわかります。
でも、それが法律ですから」
「どうして!」
 わたしは叫ぶ。
「わたしは彼女を愛してる。
彼女もわたしを愛してる。
それだけでいいじゃないですか!」

 周りがしんと静まった。こんな人前で愛を叫ぶ人間。
どれだけ恥ずかしく映っているのだろう。
「でも、法律ですから」
 鼻で笑うように言う役人。

 ……悔しかった。
 言葉に詰まるわたしを彼女が強く抱きしめる。
大好きな彼女。はっきりと一緒にいられるという
証が欲しかっただけなのに。
「行こう?」
 彼女が行って、わたしは肩を抱かれながら玄関に向かう。
「お忘れ物ですよ」
 ばかにした声。彼女がびくっと体を固くする。
……あの紙だ。

 わたしは駆け出すと男の手から婚姻届を奪い取り、
役所の外へと飛び出した。
 ポケットに紙をねじ込みながら向かうのは乗ってきた車。
トランクの上にわたしは腕を置く。

「ほんとにやるの……?」
 不安そうな彼女の声。
わたしはひとつ、うなづいた。

 諦めたようにわたしのわきの下を止血帯で縛る彼女。
きつく締まったことを確認すると、
わたしはトランクを開けてチェーンソーを引き上げる。

 ずしりと重い機械。わたしの覚悟の重さ。
歯を食いしばるとスターターを引いた。

 ……ヴゥン。鈍い音。すぐにはじけるような
二サイクルエンジン独特の破裂音を叫んで
エンジンが始動する。
「じゃ、おねがい」
 わたしの体の後ろに来る彼女に、
安全ロックをはずしながらそっと手渡す。
彼女はぶら下げるようにして膝に持つと、
言い合わせどおりにアクセルを引いた。

 空気を引き裂くような激しい音を散らして
刃がさらに勢いを増す。
「ほんとに、いいの……?」
 ためらう声。
「決めたでしょ」
 わたしは両膝を地面につくと、
忌まわしい右手を刃の根元に近づけていく。
 刃の風圧が腕にあたり――
「ぎゃああああ!」
 自分のものとは思えない悲鳴が口から出ていた。
 上腕の肉を引き裂くチェーン。
かすっただけなのに気が遠くなりそうな痛みが襲ってくる。

「やぁあああ!」
 彼女が叫んでチェーンソーを引こうとする。
「離すな!」
 わたしは怒鳴って体を近づけた。
排ガスの不快なにおいが鼻をつく。
エンジンの音が耳をつんざく。
「あがぁあう!」
 獣のように叫んだ。
 楕円の筋になって飛び散る血。
周りを赤く染め上げていく。
泪なのか血なのか、わたしの目はもう周りを
はっきりと見ることはできなかった。
真っ赤な世界に二人の叫びだけが響き渡る。

 ……死ぬ、と思った。むしろ殺してほしかった。
腕といわず体のすべてが痛みに支配される。
ごりごりと骨を削る音。血のなまぐささ。
そして焼けるような痛みとも熱さともつかない感覚。

「殺せ! 殺せぇえ!」

 じっとしていられなくてがくがくと揺れ出す体。
口のままに叫びながら狂ったように揺れ続けた。
 ……逃げ出したい! もう死にたい! 
二つで思考が破裂する。

 焼ける、焼ける……! 
やけどしそうな熱さ。腕から感覚が奪われていく。

 永遠にも似た長い時間の中で、
骨を切り落とした刃が、
その勢いで肉を一気に削ぎ落とそうとした。
 あわてて体を引き、
皮一枚でぶら下がる赤い肉塊を引きちぎる。
痛みは、感じなかった。

「行くよ」
 わたしは自分の腕を持った左手で
よだれをぬぐうと、まともに立てない足で
入り口を目指す。
エンジンを切ったチェーンソーを置き放すと、
彼女はわたしを追ってきた。

 わたしは迷うことなくさっきの窓口を目指して、
周りが見つめる中
わたしの腕だったものを投げ出す。
どさっと鈍い音をたてて落ちる腕。
あたりに血しぶきが飛ぶ。
「これは……?」
 迷惑そうに見上げる男。
わたしはポケットから婚姻届出してたたきつけた。
「これでいいんでしょ? わたしはもう右利きじゃない」
 けれど、男は冷ややかな笑みを浮かべる。

「右手が使えなくなっただけで、
あなたは右利きでしょう。
受理するわけには行きませんよ」
「どうして!」
 思わず叫ぶわたしたち。一瞥すると、役人は言った。
「それが、法律です」