0195
2006-03-01
森の中の木
 観光時期を過ぎた秋の入り、
二人は森の中をただ並んで歩いていた。
 時おり吹く風に木の葉が揺らぎ、
ざわっと人の声のような音を立てる。

 その風に乗せるように、彼女はぽつりと口にした。
「この前……会社の人が死んだんだ」
「……うん」
 彼はうなづく。
「すごくいいひとでね、わたしもいろいろお世話になって」
「うん」

 それからまた物言わずしばらく歩くと
彼女は立ち止まり、すがるように彼を見た。
「なのに、そのひとが死んでも、
そんなのなんでもないみたい。
誰も何にも言わないし、仕事だってちゃんと回ってる。
そのひとってなんだったの? わたしってなんなの? 
だれかがいなくなれば他の人がただ穴を埋めるだけ。
わたしがそこにいる意味ってなんなの?」
「ないよ」
 彼は言い放つ。

「そこらへんのアリでも見てみればいい。
その一匹をおれがつぶしたらどうなる?」
 軽く地面に目を落としながら。
「……どうにもならない。
どうにかなったらいけないんだよ。
それが集団だし、社会というもの。
だから、どんなに有能な指導者が死んだって
その集団は崩れない。集団に指導者が必要なら、
別の無能なのが指導者に納まって、それで終わり。
そうやって歴史は流れてきたし、
今の世の中だってまさにそうじゃない?」
 彼女は目に失望の色を浮かべた。

「でも」
 彼は続ける。
「だからって個人の価値がないとは思わない。
たとえばだれかがいなくなって、別のだれかが補充される。
集団はあくまで集団の機能をはたそうとするだろう。
けどそれで、本当にすべてが元通りになったんだろうか?」
「え……?」
「考えてみて。そのひとがいなくなって、
変わったことはなにもない?」

「変わってないよ。みんないつもどおりに仕事して、
いつもどおりに毎日暮らしてる」
 訴えるように彼を見ると、彼はふっとほほえんで、
「けど、ぼくは知ってる。
確実にひとつは元通りでないものがある。なんだと思う?」
「え……。ほんとう?」
「うん」
 彼は彼女自身で答えを見つけて欲しいと願いながら、
木々を仰ぐ。
 太い幹は空へ伸び、わかれ、先細り。
さらに細かくなりながら葉へ向かっていた。

 いくつもの命が重なり合う森の中、
彼は一本の木をさすり、寄りかかって彼女を見る。
「……あ」
 はっと霧を晴らしたような顔。彼女はそっと、口にした。
「もしかして、」
 ざあっと木々がゆれた。
「うん」
 彼はふわりと笑みを見せ、
「ありがとう」
 彼女はすこしだけ元のように笑った。