0240
2006-03-15
いのちの望み
「ねえ、母さん?」
 彼女の中学生のこどもが、台所にいる彼女に声をかける。
「うん?」
「なんで人は殺しちゃいけないと思う?」

 ――パン!
 瞬間、彼女の渾身の平手がこどもの頬にきまり、
彼は回転しながら床に仰向けに倒れた。
「どうしてそんなこと訊くの?」
 彼女は息子に馬乗りになると、膝で腕を固める。
「な、なんだよ」
 突然のことにうろたえる息子に
二三回往復で頬をはたくと
どこか焦点の合わないおびえたような目をし、
「どうしてそんなこと訊くの?」
 震える声で訊ねた。

「道徳の宿題なんだよ。なんで人を殺しちゃいけないか
考えろって」
 彼女は顔の横にこぶしを振り下ろす。
「そんなの、考えなきゃわからないの? 
ほんとに、わからない?」
 血の気の引いた顔で震える口はどこか笑っているように見えた。
「こどものころは食べる物もなくて、
近所でわけあって生き延びた。みんな生きるのに必死だった」

 彼女はこどもの首に手をかける。
「地震でアパートの下敷きになったとき、
声の届く人と励ましながら生き続けた。
がんばろう、生きてここから出ようって、みんな必死だった。
なのに時間が経つごとに、誰かの声が聞こえなくなって
声がうめきになって、ひとつひとつ消えていったんだよ。
いつか火が出て、すごい叫び声がした。
いつここまで火が来るか、死にたくない、死にたくないって
ずっとつぶやいてる人がいた。火に焼かれながら叫んだ人がいた」

 彼女の手に力がこもり、こどもは力を振り絞るように暴れた。
「なのに! なんで! 
だれが人を殺しちゃいけないのかなんて訊けるの!」
 彼は自由になった手で上に乗る母親を突き飛ばし、
蹴り飛ばすと壁に張り付く。
「どうして逃げるの? 
どうして人を殺しちゃいけないかわからないなら、
殺されてみればいいじゃない」
「やめてよ、まだ死にたくないよ」
 恐怖にひきつらせて叫ぶ息子。彼女は涙を散らして叫んだ。

「だれだってそうよ! それを訊ける神経自体がわからない!」