0266
2006-03-23
どきどき
 とうとうこの日が来てしまった。ピアノ教室の発表会。
 いつもの教室ならともかく、こんな広いところなんて。
ステージの上は異様に明るく、
暗い客席には信じられないほどの人。

 こんなところで、ほんとにピアノ弾くの?
 止まらない心臓に合わせて体まで揺れてる気がする。
耳元の心臓が頭の奥にまで響き渡る。

 ――わっ、と拍手。
とうとう前の人が終わってしまったみたい。
「だいじょうぶ?」
 肩をゆすられて、声。
「あ、せんせい?」
「だいじょうぶ? しっかりね」
 だいじょうぶじゃないです。もう帰りたいです。

 カーテンの隙間から出ると、
ばちばちとすごい音で拍手が鳴った。
 うわぁあああ〜。頭が回る。目の前がうねうねする。
よくわからない強い光が何回もまたたいた。
 弾かなきゃ、弾かなきゃ。
 うまく動かない足でいすに向かって、
座ってなんとか手を伸ばした。
 ――ぽーん。

 あっ、音が出た。続けなきゃ、弾かなきゃ。
 なんでまぶしい光をあてるの?
 あれ? さっきもここ弾いた気がする。
また弾いてる気がする。あれ、あれ……?

 突然目の前に楽譜。横に先生。ここから、弾くの?
 ああ、こういう感じだったっけ。こうして……これで……
 おしまい。
 終わったの? ほんとに終わったの?
 戻っていいんだ〜。
 いすを離れてカーテンの隙間へ。

「ほら、おねえちゃん、しっかりしなよ」
 あたしは戻って来て
ぶるぶる震えながら立ち尽くすおねえちゃんを抱いた。
 いつも誉められるくせに、
こういうときだけはだめだめになっちゃうんだから。
「だいじょうぶ、見てるから。もう出番だよ」
 後ろから声をかけてきた先生。
「うん。じゃあ、おねえちゃんよろしくね」
 あたしは故障したおねえちゃんをまかせて、
カーテンの隙間から舞台に出る。
 まぶしい世界。今ここにいるのはわたしだけ。
 暗がりにいる人が、みんなあたしを見てるんだ。

 どっくん。心臓が高鳴る。

 ――いま、ここはあたしの世界なんだ!

 真ん中に行って、おじぎ。
普通に暮らしていれば全部おねえちゃんにいくはずの拍手が
いまはあたしにだって向けられる。
 見て……見て!
 ゆっくりいすに向かい、優雅に高さを確かめて。
腕を伸ばし、一息。
 さあ、いくよ――

 ――トーン。

 決まった。いい出だし!
 いつものピアノより、鍵盤がすこし重い気がするけど、
音なんて冗談じゃない。歌う! このピアノ、歌うよ!
 あたりに音が響いていくのがわかる。
あたしの中に振動が踊るのがわかる。
 ……気持ちいい。
 光るフラッシュ。あたしを撮ってる。
 どう? あたしはどうなの? いまはあたしが華でしょ?
 撮ればいい。このわたしを撮ればいい!
 弾いて、叩いて、歌わせて。
 最後の最後の音を、もったいぶって、
伸ばしに伸ばして――そしてゆっくり、置いてくる……。

 しんと静まり返るホール。
 ああ、決まった。今まで一度だって、
こんな風に弾けたことなかった。
 立ち上がり、中央へ。
おじぎをすると、すごい拍手が振ってくる。

 くぅ〜っ、やったぁ!
 体をぶるぶると興奮が駆け抜ける。
 確かな手ごたえをもって舞台裏へと引っ込むと、
おねえちゃんがいつもみたいに
ちょっと困った顔をして立っていた。
「すごかったね、今までで一番よかったよ」
 おねえちゃんは今までで一番ひどかったけど。
「すごいなあ……。なんであんなの、平気なの?」
「おねえちゃんこそ、なんであれが苦手なの?」
 二人で ふう、とため息をついて、

「「わかんないなあ、その気持ち」」