0443
2006-05-20
魔剣と勇者
 朝の会社へ向かう道。
気がついたら、おれは知らない場所にいた。
 健忘なんかじゃない。
四十年以上生きてきて初めて見るこの景色は……異世界だった。
そしてなんだかんだのうちに勇者としてまつりあげられ、
まるでゲームのように魔王を倒す旅に出させられたというわけだ。
 人から仕事を与えられてこなすという点においては
会社にいようが異世界にいようが、なにも変わらない。
 まあ、勇者には保険も有給もなくて、
変わりに命の危険はあるのだが。
「よお、どうした? たそがれて」
 手元の剣が喋る。
 おれは闇を払うようにぱちぱちと赤く光を放つ焚き火に、
木の枝を軽く投げ込んだ。
「うん? ちょっと今までを思い出してただけさ」
 こいつは魔剣。普段は果物の皮すら切れないなまくらのくせに、
自分がもっとも大事にしているものを差し出すと言えば、
どんな硬いものですら切り裂く刃となる。
口は悪いが使える奴だ。
こいつのおかげで何度命を救われたか知れない。

「なあ」
 おれはふと呼びかける。
「おれが一番大事なものって、なんなんだ?」
「さあな。それを言ったら、おまえ、
おれを使わなくなるだろう?」
「そんなことないさ。教えてくれよ」
 おれがやると言うことで失っているらしい大事なもの。
 妻? 娘? 大事だった家庭は向こうですでに失った。
仕事一筋のおれに愛想をつかして出て行っちまった。
 仕事、会社? 向こうに戻って仕事がなくなっていようが、
こうしてすごしてみると、あんな仕事、あんな会社の
何が大事だったのかわからない。
 向こうの世界……それすら、もう、どうでもいい。
金も物も、一度離れてみると、意外とどうでもいいものだ。
「もしかして、思い出か?」
 楽しかった、悔しかった日々。おれが歩んできた道筋。
それを失うということは、おれを支えるもの、
おれを作ってきたものを失うということだ。
いつかすべてを失って、それすら気づかないとしたら、恐怖だ。

「来たぞ」
 問いには答えず、魔剣がつぶやいた。
そういえばさっきから木の揺れる音がしていたと思ったが、
敵襲なのか。
 オオオオオオ!
 立ち上がって構えると同時に、獣のような叫び声をあげて
何かが焚き火の向こうに飛び出した。
「な……っ!?」
「ばかでかいな、こいつは」
 木の上に頭が出るほどの人型のケダモノ。
見上げる間にふりおろされたこぶしがおれを……
「ぼーっとしてんじゃねえ! 死にたいのか」

 おれの腕ごと飛び出したあいつが
それを刀身でうけとめたものの、
それを支えているのは基本的にはおれの体。
すべてを受けきれずに跳ね飛ばされてしまった。
 いいだけ地面をすべり、ようやく止まってから
何が起こったのかに気づいて頭から血が引いていく。
 今のをまともにくらっていたら
、へたすれば死んでいたかもしれない。
「魔剣! 力を貸せ!」
 おれは叫ぶ。
「よしきた!」
 嬉しそうな声が返り、手の中の剣から
なにかの力が湧き出すのがわかる。
 そこへ巨人の攻撃。太い丸太のような腕が、
まっすぐおれに向かって伸びてきた。
 操られるように手が勝手に動き、刃をその中心に合わせる。
剣とこぶしがぶつかり合い、おたがいその場で固まった。

「だめだ。力が足りねえ。もっと、もっとだ!」
 魔剣が叫んだ。
 ちくしょう。……でも、こんなところで
死ぬわけにはいかないんだ。
「いいだろう、使え! 一番大事なものだろうがなんだろうが、
いま生き延びるためならくれてやる!」
 その瞬間、剣は相手のこぶしを中心から
まっぷたつに引き裂き始めた。
 岩にぶつかり割れる川の水のように、
相手の腕が力の限りふたつに裂けて伸びていく。
「このままとどめだ!」
「おうよ!」
 太い腕を根元までかち割り、苦悶にゆれる頭を
返す刀で切り落とす。
 血しぶきをあげて倒れる肉塊。
 ほっと息をつくおれの目の前、額をくすぐりながら、
ぱらぱらと何かが落ちてきた。
 思わず手に受けてみると、それは束になるほどの髪の毛。
 かみのけ?
 頭に手をやると、なんだかすごく
すかすかしているような……?
 はっと気づいて、おれは叫んだ。

「髪かよ!」