気がついたら、真っ暗だった。
体は変に押し曲げられ、ひどい蒸し暑さと威圧感。
「なあ、だれか……」
押し付けられた胸から声を絞り出すと、
「ああ、ご無事ですか?」
こもった声、たぶん老人に入りかけの男の声が
意外と近い場所から聞こえた。
「あの、すいません。わたし……どうしてここにいるんでしょう」
「え? ……ああ」
悲しそうなためいき。
「覚えていませんか? デパートが、崩れたんですよ」
「え、あ、ああ〜!」
そうだ。そういえば変な音が聞こえて……。
「結婚記念日なんて思い出すんじゃなかった。
久しぶりにプレゼント買いに来た結果がこれですよ」
わたしの言葉に向こうの人はくすりと笑いをこぼす。
それからすこし言葉を交わし、
やがてどちらからともなく会話が途切れた。
「暑いですね……」
じめじめとした空気が体の水分と一緒に
気力まで奪っていくようだった。
「暑いですね」
言葉が返ってくれてほっとする。
もしこんなところに一人でいたらと考えると、
気が遠くなりそうだった。
「もうどれくらいこうしているのか……。
いま何時なんでしょうね」
海岸で砂に埋もれているような気分。
時計はあるのに、腕を上げて見ることすら許されない。
と。
――キン・キン・キン チンチン キンキンキン
かわいらしい小さな鐘の音。
「三時三十三分ですね」
男性は言った。
「ええ? 音でわかるんですか?」
「ええ。父の形見でして」
しゃべるごとにどんどんと疲れていくのがわかる。
ずっとしゃべっていたいのに、お互い言葉を出すという重労働に
口が重くなっていく。
またどちらともなく会話が途切れたが、
今度はときどき鐘の音が鳴った。
薄れそうになる意識。くじけそうになる心。
それを支えてくれたのは、この小さな鐘の声だった。
そのあとわたしはなんとか生きて救出された。
「生きててくれてよかった〜!」
妻はぼろぼろと涙をこぼし、
わたしも生きている喜びを噛み締める。
「せっかくだし、なにか記念になるもの買おう?
なんでもいいよ」
そう言われて思い出すのは一つ。あの時計だ。
そこで崩れても簡単に助かりそうな
小さな時計屋に行ってたずねてみると、
職人といった感じの店の主人は嬉しそうな顔をする。
「ミニッツリピーター付きですね。
いやあ、このご時世に本物がわかる方だ」
でも……と残念そうに付け加え、
「さすがにこんなところに飾っておいても売れませんので、
物がないのですよ。よろしければお取り寄せできますが」
そして店主が見せてくれた本には
どれも美しく趣向を凝らした作りの時計が並んでいた。
「ほお〜、これはすごい」
思わずため息。
「こんなに凝ってると、結構お高いものじゃないんですか?」
妻が聞いた。だが、どんなに高くても所詮は時計。
つなぎとめてくれた命に比べたら安いものだ。
「そうですね。ここらへんは特に高給ですし、
お値段としては――」
その言葉に妻と顔を見合わせる。
二個あったら田舎に豪邸が建てられる値段。
振り返るとあふれんばかりの笑顔で妻は、
「あなた、なんにもあげられないけど、生還おめでとう」
どこか芝居かかった調子で言った。
わたしの命を救ってくれた希望のかねは、
日々を暮らすためのかねに負けた。