0830
2006-09-04
幼き君
 朝も夜もなく泣き出すあかちゃんに、もう体も心もぼろぼろ。
ミルクはいらないらしいし、おしめもぬれてないし、
あやしても泣き止んでくれない。
 どうすればいいかもわからずに、
いっそこっちが泣きたいくらい。
『だいじょうぶ。そのうちなんで
泣いてるかわかるようになるから』
 実家に電話するとおかあさんは言った。
『どうして泣いてるかは、あかちゃんに訊いてごらん』
 あかちゃん……。この、顔をくしゃくしゃにして
騒音を出し続ける生き物に、母親としてやっていける自信なんて
すっかり打ち砕かれた。
「ねえぇ、何で泣いてるの? 
泣いてるだけじゃ、わたし、わかんないよ」
 すがるように言ってみると、
「悲しいんだよ、つらいんだよ」
 あかちゃんは言った。
「人間にはずっと、喪失感というものがあった。
『何か足りない。何か欠けている』という想い。
それは多分、生まれ落ちたときに生じた。
『人は一人で生まれて一人で死ぬ』なんて嘘だよ。
『人は二人で生まれて一人で死ぬ』んだ。すべては母から生まれ、
そして生まれた瞬間に幸せだった『大いなる一体感』は失われて
赤ん坊は泣き出す。ぼくはこれからこんな喪失感を持ったまま
生きていかなくてはいけないのか? 
……それがとても悲しく、つらいんだ。
でも、人は慣れる生き物だ。もうすこししたらごきげんなぼくに
なれるかもしれない。それまで迷惑をかけるけど……
どうか、よろしく頼みます」
 ど、どの口がこんなこと……? 呆然と眺めていると、
「どうしたの?」
 後ろから夫の声。

「ね、ねえ、聞いた? いま、あかちゃんがしゃべった」
「ええ? まさか。ほーら、なにか言ってごらん」
 夫がほっぺをつつくと、あかちゃんはまるで
あかちゃんのようにぷわぷわと手足をばたつかせて笑った。