0934
2006-10-04
見た目がもっと大事
 日中、病院の財政にため息をついていると、
妻が――看護士長が叫びながらドアを開け放った。
「院長! 急患です!」
 わざわざわたしを呼ぶということは
他に対処できる医師はいなく、彼らを呼ぶ時間すら
待っていられない状況なのだろう。
「今行く!」
 わたしはいすを押し込んで立ち上がり、
早足でオペ室へ向かった。
 歩きながら容態をきいたところでは、
患者は車に轢かれたらしい中年女性。
その夫があわてて運んできたのだが、内臓にひどい損傷があり、
もはやあと何分で死ぬかの話でしかないらしい。
「なに? ならそんなに急ぐこともないじゃないか」
 思わず足を緩め、訊ねる。
「だんなさんをオペ室に入れて、せめて最後のみとりを
静かに迎えさせてやればいいだろう」
「それが……ね」

「先生!」
 妻の声を覆うように、男の声。
「あいつを、あいつを助けてやってください」
 オペ室への廊下から駆け寄る男は
きちんとした身なりの立派な男。
普段はこれほど取り乱すこともないのだろう。
「先生、お願いします! いくらかかってもいいんです! 
あいつを、とにかく治してください!」
 狂気すら含んだ必死な目で痛いほどわたしの腕を握って叫んだ。
「最善は尽くしますが、もしものときは」
「いやだ! わたしにはあいつが必要なんです。
どんなことをしてもいい。いくら払ったっていい。
この病院だって建てなおしてもいい」
 スーツの内ポケットから小切手の束をとりだして、
「あいつが治るなら、金なんて問題じゃないんだ。
お願いだ、どうやっても!」
 病院を建てなおす?
 その言葉に胸が熱く震える。
「おまかせください。最善を尽くしてきます」
 わたしは一呼吸で気合を入れて、オペ室へと入った。
 ――が。
 そこに横たえられた女性を見て、かすかな期待も消えうせた。
「どうするの、あなた?」
 妻の言葉に気をとりなおし、ひたすら考えをめぐらせる。
 なんとか金をもらうんだ。この病院をすくわなければ!

 そして、三か月後。

「ありがとうございます、本当に」
 退院まで毎日かいがいしく見舞いに来た男が、
妻の乗った車椅子のハンドルを握り締め、振り返る。
「いえいえ、よかったですよ」
 わたしは心からの笑みを浮かべ、男に言った。
「ただ、体は動くようになっても、奥さんの記憶が
いつ戻るかはわかりません。
それに、一生喋ることもできないかも知れませんが」
 すると、男は。
「それでもいいんです。こうして妻が生きていてくれるだけで
充分ですよ。先生には感謝のしようもありません」
「そう言っていただければなによりです。
……それでは、お幸せに」
 何度も頭を下げながら歩いていく姿を見ながら、
わたしはふとつぶやいた。
「もう充分お幸せだけどな」