0936
2006-10-04
せみしぐれ
 八月も終わりに近づく、夏の日。
すこし遅めの夏休みを彼女と合わせて
むかし住んでいたという田舎を訪ねた。
 山に囲まれた街は、もう秋の香り。
夏よりも控えめな風が彼女の髪をなでては流れていく。

「ああ、この景色だぁ」
 柔らかに目を細め、木々を、空気を感じる彼女。
 ぼくの知らない彼女の時間。ここにいた昔の彼女は
どんな子だったんだろう? どんな時間を過ごし、人といて、
どんな風に笑ったんだろう。
 すこしの寂しさを感じながら見つめていると、
ふと、強い風が吹きはじめる。
「あ、来るよ」
 彼女は言った。
「え?」
 ばらばらばら……。
 小さく響く、土の音。
「雨?」
 音が近づき、するどく頭にあたるもの。
「いてっ。なんだ?」
「蝉時雨だよ」
 ジッ、ビッ。
 地面に黒く落ちるのは、数え切れない蝉の群れ。
 小さな悲鳴に似た音は、蝉の最後の命だろうか。
「風流だねえ」
 体を叩く蝉を気にするでもなく立ちながら、
彼女は楽しそうに地面を見回していた。
 これが風流? 足元を覆いつくす蝉の死体の山が?
 そんな疑問を抱きながら、
ぼくはもう一つの疑問を言えずにいた。

『蝉時雨って、こういうのとは違うんじゃないの?』
 ――と。