0939
2006-10-05
(E)
「おとうさんの職場に行こう!」
 おかあさんが急に言い出して、
ほとんど無理やり車に乗せられた。
「こんなんで学校休んでいいの?」
 走り出す車の中でため息混じりにつぶやくと、
「こんな、じゃないよ。家族にとって大事なことなんだから」
 前を向いたまま笑顔を浮かべて答えた。
「大事? なにが?」
「おとうさんのこと、きらいでしょ?」
 ぎく、と勝手に反応する体。
「ん……別に?」
「ふふふふ、わかるんだなぁ。
だから、おとうさんが仕事してるところ見て欲しいんだ」
 どんな仕事してたって、それを見てみたって、
おとうさんはあのおとうさんじゃない。
 そんな言葉を飲み込んで、連れられるまま会社に行った。

 見上げるほどの建物の、街を見下ろす高い場所。
見渡す限りのこの広い部屋が、
おとうさんの仕事場らしいけど……。
 図書館みたいな仕切りの机にずらっと並ぶ女の人は、
軽い電話の呼び出し音で電話をとってごあいさつ。
気の毒そうな言葉を出して、頭を下げれば電話はおしまい。
誰かが取れば誰かが終わって、誰かが終わればまた始まって。
そんな声と音がさわさわと、落ち着かない響きで
部屋の空気を揺らしている。
 なんだかすべてが作り物のような、
ここにいる人がみんな人じゃなくて
何かそれっぽい『もの』のような、
変な気味の悪さが漂っているような気がした。

「あ、あそこ」
 立ち止まるおかあさんに、見ているところを目で追うと。
きちんと着たスーツのせいか、他の人と一緒にいるせいか、
家とは違う雰囲気のおとうさんが女の人の後ろに立って、
困った顔で頭を下げていた。
「ひどいクレームみたい」
 声をひそめておかあさんが言う。
「で、なんでおとうさんがあんなに謝ってるの?」
「他の人が手に負えなくなった電話の相手を
なんとかするのがお仕事だから」
 仕事……。それで自分が悪くもないことに
ただ頭を下げてるなんて。
「なんか、ださい」
 それが正直な感想だった。
「でも、おとうさんはそうやって、
あなたやわたしのためにがんばってるんだよ」
「わたしのため?」
 胸をこする嫌な感じのもの。それにまかせてわたしは言った。
「わたし、そんなことしてなんて頼んでないよ。
そんなに嫌なことだったら、お金は減ったって
もっとましな仕事すればいいじゃない。
へたに恩着せられるより、わたしはそっちのほうがいい」
「ん〜」
 小さく首をひねると、
「そういう意味とはちょっと違うかな」
 体を寄せて、おかあさん。
「おとうさんだって、ただ嫌で勤めてるわけじゃないよ」
「どうして?」

「たしかにここのコールセンターのお仕事は、
社員の人にも別部署の委託の人にも、ごみみたいに扱われてる。
ただ電話をとっていればいいだけの楽な部署。
企画もしないし開発もしない。修理をするわけでもないし、
販売のように直接お金を生み出すわけでもない。
そんなふうに思われて会社でも軽く見られてるし、
人によっては電話機の一部みたいに言う人もいる。
……でも、ちがうんだよ」
 わたしはおかあさんを見上げ、おかあさんはわたしを見て。
そんな目と目が交わった。
「実際は、ほとんどが文句交じりにかかってくる電話に
ひたすら頭を下げる毎日。企画が出した穴の開いた案に、
開発が作った欠陥だらけの製品に、修理が起こした手違いに、
販売が説明もせずに強引に売ったその後始末に、
ただただ謝り続けるんだ。
 電話の相手は、受話器の向こうにいるのが
人だとは思わないような、社会人として最低の人間ばかり。
口から出るままに暴言やののしりをひたすら言ってくるから
毎月何人もの人がやめていくし、わたしだって
心が痛くて仕事もできなくなった。
それを続けていくのがどれだけ大変なのか、
やったことない人はわからない。
 直接の売り上げを出さなくても、未来の売り上げのために。
いま不満をぶつけるお客さんが笑顔になって、
大事な仕事を続けられるように。
続けられて、また次も買おうという気になるように。
そうやって働きながら大切な人の笑顔をも守るために、
おとうさんやここにいる人たちは、自分が悪くなくても、
会社のゆがみを自分たちで一身に背負って精一杯あやまるんだよ」

 そしておかあさんは顔を上げ、
深い色のこもった目であたりを見回した。
「それははたから見ればすごく ださいのかもしれない。
でも、そのだささこそがかっこいいんだと、わたしは思う」
 わたしはまた、おとうさんを見る。
 曲がった事がきらいで、融通もきかないおとうさん。
悪いことをしたら自分で謝れとわたしには言うのに、
自分は謝らない他人の変わりに謝ってるなんて。
どんな気持ちなんだろう。自分はなにも悪くないのに、
文句を言われるための仕事をするってどうなんだろう?

「……あ」
 ふと、景色が浮かんだ。
 教室で、集めて持っていくプリントを
撒き散らしてしまったわたし。
一緒に拾ってくれたのに、先生に叱られるはずだったわたしの
身代わりにまでなった男の子。
 それくらいの責任は自分でとれた。
なのにわざわざでしゃばって、そんなに自分に酔いしれたいのと
冷たい目で見てしまったけれど。
それが、もし、だれかを守るためだとしたら?
「ばか……」
 ばかだ。なんてばかなんだろう。
 誰かの笑顔のために、自分が叱られ、謝るなんて。
 なんてださくて、なんて無茶で、そして――
なんて、すてきなんだろう。

「どう? かっこいいでしょ? おとうさん」
 いたずらっぽい声に胸が跳ねて。
「ち、ちょっとだけね、ちょっとだけ」
「ええ? ちょっとだけ? すごく、いいと思うけど」
 からかうような残念声に。
「ちょっとだよ。だから……」
 顔をそらしてわたしは言った。
「いいはいいでも、括弧つきだからね!」