0940
2006-10-05
草明ける
「あ、落としましたよ」
 と。後ろから声をかけられて振り向いたそこには。
わたしに手を差し出す人がいた。
「え?」
 その手にはわたしの財布。改札を通ったあと
かばんに入れようとして落としてしまったらしい。
「あ。ありがとうございます」
「いいえ」
 受け取るとその女性はにこりとさわやかな笑顔を見せた。
 わ……!
 歳はわたしと同じくらいだろうか、あらためて見るその人は、
前髪を四六程度でさっぱりと分け、乱れないように止めた上、
後ろ髪はきつめに結わえた清潔感にあふれる姿。
整った顔立ち、涼しげな眼を覆うのは落ち着いた細身の眼鏡。
 ブラウスのボタンは上まで留めて、紺色のベストと、
おそろいの膝丈のスカートが気持ちのよい躍動感を演出している。
その下の主張しすぎない胸はあくまで控えめながら、
健康的な女性らしいラインを作っていた。
 ……完璧な、完璧すぎるほど完璧な眼鏡美人だった。

 お礼を言って別れたあと、瞬間で目に焼きついた姿を
思い出いだして考える。
 ――たとえば。さわやかさの中に凛とした知性の輝きを
感じさせる彼女が、その姿を崩すことはあるのだろうか?
 もしも付き合ったなら、抱きしめる腕の中で頬を染め、
目を潤ませてわたしのことを見たりするんだろうか。
誕生日でもないふつうの日に両手いっぱいの花束を贈ったら、
驚きと一緒に照れたはにかみを見せてくれるんだろうか。
 ああ、見てみたい!
 あんな人が、あんな子が。他のだれにも見せない、
ほころびた表情を見てみたい!
 なんだろう、この気持ち。思うだけでうずくような、
熱く震える胸はなに?

 と、帰ってから思いのままに友達に電話すると、
「とうとうこっちの世界に踏み込んだか」
 満足そうにうなづく声。
「ちょっとー。恋だとか変だとか言わないでよね」
「言わないよ」
「え?」
 思わず聞き返すわたしに。
「それが、萌えだよ」