0976
2006-10-13
彼女の行間
 あれは……哲学の授業だった。
 雑談交じりに道徳についての話をしているとき、
だれもいない道端で大金の入った財布を見つけたらどうするか、
というような質問が投げかけられたんだ。
 拾って自分のものにする人、警察に届ける人、
悩んでどうするかわからない人。
そこまで手をあげなかったのが、わたしともう一人。

「なら、君はどうすると思う?」
 さされたのは長い黒髪のきれいな、背の低いかわいらしい子。
うつむきがちの顔は世間の汚れなどとは
無関係に生きてきたような奥ゆかしさを感じさせていた。
「たぶん、見なかったことにして行くと思います」
 聞いたことのなかった愛らしい声。
「もらっちゃおうとは思わない?」
「思いません」
 周りから小さく起こる、侮蔑の笑い。
 苦労も知らないから、お金持ちだから。そんな声が聞こえる。
「それはどうして?」
 先生が訊くと、
「まずは、不当利得だからです。わたし以外の誰かに
属するものを、ただ落ちているからというだけで
不当に得ていい理由がわかりません。
それに、だれも見ていないとは言え、
財布を手にするところをだれかに見られていないとも限りません。
財布に大金といいますが、
たとえばお札でいっぱいになるようなものなら、
落とした人はそれ以上のお金を持っている人でしょう。
それが財布を落とすような事情はなんでしょうか? 
もしわたしがその後届けるにしろ、届けないにしろ、
財布を手にしたところを見られていたら、
その後になにかに巻き込まれないと言い切れるでしょうか? 
そしてもしわたしが拾ってお金を自分のものにしたとして、
そのお金が出所の正しいものだとは調べきれません。
もし強盗か何かが印をつけられたお金を使ったのなら、
わたしも容疑者、もしくは共犯として
調査される危険もありますし、拾ったという
後ろめたさのあるお金ではろくな使い道ができません。
拾ってもなにも感じない人ならそれはそれで楽しむのでしょうが、
わたしは自分の身の丈もわきまえていますから」
 さらりと流れるような言葉に、教室から余計な声が消えた。
 清らな彼女からあふれる打算。
 わたしが誰かと友達になりたいと思ったのは、
これが初めてのことだった。